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○平成8年(1996年)  船橋市役所入庁
2週間の研修を受けて、配属先が医療センターに決まったとき、「ドナドナ」の歌が流れた。(他の同期が市役所の建物に行くのに、自分だけが車に乗せられて連れていかれたため)
ここでも運良く、巡り会った上司、仕事に恵まれ、社会人としての基本を学びつつ、ノビノビと仕事をさせてもらう。ノビノビしすぎて、自堕落な生活をまた送る。この時に出会った人たちは今でも財産となっており、交流を保っている。
しかし、仕事、人間関係に充実感をあったものの、仕事をやるにつれ、地方分権という建前はあっても、最前線の自治体がチャレンジングな施策が打てないのは、国の制度が変わらないからだと痛切に感じた。そこで国の制度を変えたいと思い、改めて国家公務員試験を受ける。就職氷河期真っ只中で、試験合格しても採用されるのは半分に満たない状況の中で、かろうじて法務省に拾ってもらう。

○平成12年(2000年) 船橋市役所退職&法務省入省
当時は、省庁の枠を超えた研修が充実しており、多くの省庁の同期との繋がりができる。1名は途中で不幸があり亡くなり(今でいうヒートショックが原因)、私と同じ「マイナー大学仲間」の1名が自殺した。その他は皆、現在、国家の中枢で活躍している。この時期には超一流の優秀な人間と知り合う機会が増えた。私の存在は、完全な「色モノ」ではあったが、ポケモンと同じく弱くてもレアであればレアであることが興味を引くらしく、一応の存在感はあったらしい。

最初の6年は、本省勤務、総務省出向で、霞ヶ関で仕事をしており、行政官としての醍醐味を味わいつつ、終電、徹夜が当たり前の環境でも充実感を感じていた(ワーカーホリックというのかも知れない。)。この時に出会えた人との繋がりが今でも一番続いている。
セカンドステージは、海外留学からスタートしようと思っていたが、海外留学の選から漏れる。これまで海外留学へのエントリーは0名か1名だったので、勝算ありと思っていたが、この時に限って私含めて2名であったため、シンガポールで組織マネジメントを専攻したいという私より、英国で刑事政策を専攻したいという人の方を優先させる結論になった。中央省庁初のシンガポール留学が阻まれてしまい、モチベーションが減退した。

その後、刑務所勤務になったが、刑務所のやり方(軍隊式のやり方)になじめず、じり貧になる。新しい展開を狙い、国内大学院への進学を考え、当時ブームになっていた終身刑について研究しようとしたが、これも阻まれた。
そうなったら、本当に自分のやりたいことをやろうと思い、自力で経営学を専攻する決意をして、東北大学の社会人入試を受験し、運良く合格した。